メッセージ
複合災害に備える 首都圏と大船渡との連携
新沼 岩保
首都防災ウィーク大船渡調整事業部長/首都圏さんりく大船渡人会会長
さんりく・大船渡ふるさと大使/地質コンサルタント

1.大船渡市の大規模林野火災
復興途上に起きた複合災害*海と陸の二重災害ともいうべき大船渡の林野火災には心が痛みます。インタビューされた高齢の女性が話す、「もうこれ以上津波も山火事もいらないから、二度と来てほしくない」という言葉を聞くと、痛ましくて切なくなります。
3月3日、首都圏さんりく大船渡人会からの災害義援金募金の呼びかけに対して、たくさんの首都防災ウィーク関係各位からお見舞いの言葉とご寄付を賜りました。誠にありがとうございます。誌上を借りて感謝申し上げます。大船渡の人たちが前を向いて歩けるよう、応援に全力を傾ける所存でおります。今後とも宜しくご支援の程をお願い申し上げます。
2.綾里地区の現況
2月26日に発生した大船渡市の大規模林野火災は、鎮圧はされたものの3月14日現在鎮火を目指して残火処理作業中です。焼失面積2900ヘクタール、焼失家屋210軒、内住居102軒に及ぶ被害に、風光明媚なリアス式海岸特有の地形が作用したと評価されたことは海辺の過疎地の防災対策のあり方に一石を投じました。。
3月10日の避難指示解除を受けて、市民会館リアスホールに避難していた綾里地区の知り合いの漁師さん一家7人は12日ぶりに自宅に戻ることができましたが、停電と断水がまだ続いています。疲れたという言葉を聞いたことがなかった漁師さんから初めて「さすがに疲れた、早く家に帰って寝たい」とのメールを受け取った時は避難生活の大変さを慮りました。
同日、自宅をお見舞いに行った同級生が周辺の様子を写真で送ってくれました。西隣のお宅は全焼、間にある倉庫が燃えたものの母屋は無事でした。すぐ近くの山林は焼け焦げており、紙一重で運命が分かれた結果が隣り合っており、災害の非情さを認識させられました。
このお宅の親戚筋の陸上アワビ養殖施設は海水循環機能が損なわれ、200万個に及ぶアワビの損失が生じています。東日本大震災で流された設備を復興させ、やっと震災前の売上に戻ってきた矢先の火災でした。
綾里地区の漁業生産を代表する三陸わかめの収穫時期が迫っています。高品質が保たれる一定の水温範囲内での収穫作業が必須で、3月初めから4月下旬までが漁期です。幸いにも漁船の被害はなく、適切な時期の漁再開が望まれています。火災の影響による地盤の保水能力や強度の劣化や湾内への真水湧水の環境変化も懸念されるところです。
3.大船渡市立末崎中学校の首都防災ウィーク訪問
大船渡調整部会で今年一番嬉しかったことは末崎中学校の修学旅行先に首都防災ウィーク会場を選んでいただき、防災をテーマに交流できたことです。
2泊3日の行程中、2日目の9月5日に本所防災館での防災体験後に復興記念館を訪れて関東大震災や第二次世界大戦の東京大空襲に関する資料や展示の見学、そして慰霊堂で首都圏さんりく大船渡人会や実行委員会との交流が行われました。
25人の中学3年生は、東日本大震災当時は0~1歳だった年代。学校で取り組む防災、伝承活動について紹介されました。防災学習の一環で製作した「避難カード」や養殖ワカメ発祥の地で「海に生きる」をテーマに毎年自分たちで作っている「ふれあいわかめ」をいただきました。養殖わかめ、碁石海岸に代表される地元の三陸ジオパークのこと、みちのく潮騒トレイルを説明したパンフレットも素敵でした。揺れがあったら、まず自分が逃げる、助け合う、命を守る大切さを学んでいることが実に明確でした。大船渡人会のメンバーはみな目元が潤んでいました。気仙語で「なんともぞやな」がぴったりの生徒たちでした。
2014年から続く碁石をテーマにした復興まちづくりを応援してきた経緯、2017年に当時の戸田市長が講演した大船渡復興への道のりと首都直下地震の事前防災と復興のあり方の論議や竹あかり制作のご縁が導いた訪問と思います。
被災地の大船渡が、首都直下地震の事前防災を進める首都防災ウィークに果たす役割を、震災当時生まれたばかりのこの生徒たちが被災経験を伝承し、自ら命を守る行動を考えるという姿勢に見ることができます。
4.大船渡市立末崎中学校卒業生「出港!」
3月14日の東海新報(大船渡市、陸前高田市及び住田町からなる気仙地域の地元紙)に、大船渡市立末崎中学校として最後の卒業式が行われ、卒業生26人は希望を胸に「出港!」と掲載されました。来年度は大船渡中学校と合併し、新生「大船渡中学校」となり、末崎中学校は78年の歴史を閉じます。東京都慰霊堂を訪れた子どもたちが首都と大船渡の防災を繋ぐ存在になることを願います。
5.命を守り、健康に暮らす
3月12日、大船渡出身、診療看護師を目指して大学院に学ぶ看護師さんの「命を守り、健康に暮らす」-東日本大震災の経験と看護師の視点からのメッセージ-の講演を聴く機会がありました。東日本大震災当時は大船渡高校2年生、クラブ活動中に地震があり、大人の迎えが来るまでは待機との指示。車は通行できず、父親が自転車で迎えに来てくれて避難所に待避したが、家業の建物は津波で失われたこと、母親が車で祖母を迎えに行き渋滞に巻き込まれ危うく津波に飲み込まれそうになったこと、父親が津波の勢いに押され、山の方に逃げようとして津波を横断する方向に逃げてしまい幸いにも助かったこと、停電解消まで1ヶ月、断水解消が連休明けだったことをハザードマップと津波到達エリアの図で紹介してくれました。来ないと思っていたところまで津波が来たという、予測できない自然災害の怖さを知り、防災の大切さを認識した体験でした。
5月になっても休校だったので友人と市役所に出かけてボランティアに応募し、避難所で物資の仕分けに従事した折に、疲弊している避難者のそばで自らも被害者である看護師が元気付ける姿に接して自分も看護師になると決めたそうです。
震災のこと、命を守ること、健康に暮らすこと、いろいろと考えさせられました。思いがけないこと、想像できないことが起こる世の中、事前に想定して備え、切り抜ける知識を持つことの重要性を再認識しました。
6.あの時私は守られた 今度は私が守る番
12日の講演会後、帰宅して夕刊を見たら、震災当時に講師と同じく大船渡高校の2年生だった生徒の現在が紹介されていました。出身地は火災が発生した合足地区。急いで勤務先から戻ると山から火柱が上がっており、祖父と位牌を持って公民館に逃げた時、14年前部活動中に地震があり、泣きながらの避難中に、母親から「迎えに行く」との電話があったきり現れることがなかったことを思い出したとのことでした。
大船渡市内の児童養護施設に勤務しており、サイレンや上空を飛ぶヘリコプターの音に動揺する子どもたち30人を見ると、この地域はどうなるのだろうと不安に思いつつも今は悩んでいる暇なんてない。当時は「大人に支えてもらった。今度は私が守る番」と積まれた支援物資に囲まれて言ったとの記事でした。
経験したくない災害です。災害を目の当たりにした人たちはより特別な思いに駆られるのではないかと想像します。
新沼岩保(にいぬま いわお)
1949年大船渡市盛町生まれ。防災意識向上と地域振興の両立を目指します。